南北朝の動乱の時代、北朝初代天皇であった光厳上皇が出家し開山した京北山国の常照皇寺には、今から650年以上も昔、光厳上皇がわらつと納豆を愛用していたことを示す絵巻物が伝えられています。納豆発祥の伝説は日本各地にありますが、京都市右京区京北もそのうちの1つであるといわれています。
長年親しまれる京北の郷土飯
南北朝の動乱の時代、北朝初代天皇であった光厳上皇が出家し開山した京北山国の常照皇寺には、今から650年以上も昔、光厳上皇がわらつと納豆を愛用していたことを示す絵巻物が伝えられています。納豆発祥の伝説は日本各地にありますが、京都市右京区京北もそのうちの1つであるといわれています。
大きい丸もちを焼き、焦げ目を中に包み込むようにして伸ばし、塩で味付けした納豆(地域によっては、砂糖や黒砂糖を入れる)餃子のように包みきな粉をまぶす納豆もち。京都・京北の伝統食。
上桂川流域に位置する京北地域では、長岡京造営や平安京造営時に材木を筏に組んで、桂川の水運を利用して運搬したと伝えられ、山国荘(現在の山国、黒田地区)は、平安時代から宮中の修理職(営繕担当部署)領であり、明治維新まで天皇家直轄の「禁裏御領地」として用材を京都に搬出し続けました。
平安時代から皇室との関係が深かった山国荘は朝廷の護衛役などを務め、幕末の戊辰戦争には農民で組織した「山国隊」が「官軍」として参加。その山国隊の郷土食として食べられたのが『納豆もち』。広く勤皇の兵士たちに賞味されたと伝えられています。
昔の納豆もちは、自分の顔の大きさくらいあり、お正月は三が日かけて食べ、固くなれば軽く火であぶり、その香ばしさを楽しんだそうです。毎日食事を作っている女の人にとってこの三が日だけは休息日でもあったようです。
いぐさやわらで編んだ笠に似ていることから商品名を「あみがさもち」と名付けました。
時間がない朝ごはんにおすすめ。前日に冷蔵庫で解凍をしていれば、トースターやフライパンでお餅を焼くだけで出来上がり!納豆で栄養満点、お餅なので腹持ちもいいです。
白いおもちに塩であえた納豆を包んだ納豆もち。こちらのお餅にはきな粉もまぶしています。(きな粉は自社栽培の大豆を使用)さらに砂糖を入れると、新食感のスイーツに!お子さんの3時のおやつにももってこいです!
京都・京北(けいほく)地域では、お正月にはお雑煮ではなく、納豆もちを祝いもちとして食べる風習が今も引き継がれています。
里人が歳末に炊くみそ豆をわらを束ねた「つと」に入れて光厳天皇に献上しました。その豆を少しずつ食べていると、しばらくして豆に糸がひくようになりました。
腐ったのでは?と思いながらも里人からいただいた豆を捨てるわけにもいかないので、塩をかけて食べるととてもおいしかったことから、それを里人にふるまったことで、わらつと納豆が広まったといわれています。
そのためか、この京北地域には昔から納豆と深い関わりがあり、納豆を食べる風習が残っています。山村で不足しがちなタンパク源を畑の肉といわれる大豆をわらに包んで数日寝かせ納豆を作り、おもちで包んで食べる納豆もち。
村の必需食品として、山仕事や筏師の弁当にも愛用され、今も食文化として残っています。
桂川上流のきれいな空気と水に恵まれた自然豊かな環境の力を借り、種まき、田植え、稲刈り、米や大豆の乾燥まで手塩にかけて育てた原料を使用しています。
夏は鮎釣りでにぎわい、冬は雪国になるのどかな田舎です。そんな寒暖の差のはげしい環境の中で育てられたもち米・大豆は本当においしいんです。
会社での生産はもちろんのこと、地元農家さんにご協力をいただき、圃場をお借りしたりオーナーを募るなど、量産体制の確立に取り組んでいます。